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「仙台舞台芸術フォーラム」インタビュー 

生田恵(三角フラスコ)

インタビュー・編集:谷津智里

 

アーティスト自身が回復する過程で

(「はなして」INDEPENDENT:2nd Season Selection [2012年 撮影:INDEPENDENT] )

谷津 震災の後、どんな風に作品を作り始めましたか?

生田 一本目は、4月の末に「C.T.T.sendai 特別支演会」に参加させてもらっています。C.T.T.は「完成品のためにいろいろ試している過程」の発表の場を提供していて、通常は「試演会」という形式をとっています。もともと京都で発足したんですが、ちょうど震災の少し前にC.T.T.仙台事務局が出来たんです。そんな時に震災が起きて、他地域の事務局からも「応援する」という話が来たんですね。ただ、こっちは「この状況で一体私たちはどうしたらいいの?」「表現をやっていいの?」という状態で。何をしたらいいのかわからず、身動きが取れなくて、何も書けなくて、何かやりたいけれどとてもそんな状況じゃなくて。仙台の内陸部にいた私たちは、大きな揺れは感じたけれど直接的な被害はあまりなく、まだ家に帰れない人や、もっと辛い思いをしている人がいる中で「自分たちはそれほど被災してない」という思いがありました。「目に見えない被災」と言われたりしたんですが。でもやっぱり、表現する側の人間は表現することでしか癒されない部分がある。それで、私たちも回復するためのリハビリという形で少しずつ演劇をやるしかないのではないか、という話になりました。それでできたのが「いま。」という作品です。その時は、稽古場にいるのも不思議で。「本当にこんなことしてていいんだろうか?」と思いながら、身体中に、何かふわふわしたものがまとわりついたような感じのまま稽古場に行って。でも稽古場に行くと俳優は動くので「あ、それいいんじゃない?じゃあそこでちょっとすれ違ってみて。あ、いいような気がする。」とか言って。そういう、言語化される前の、動きから出てくるものだったり、彼らから発せられるものだったりを汲み取って、やり取りして、台詞の無い短い作品を作りました。それを(2011年の)4月30日と5月1日に発表させてもらいました。

谷津 稽古をし始めたのはいつ頃ですか?

生田 けっこう記憶が飛んでいて、わからないんですけど。震災の後、仙台の演劇関係者が「とにかく集まろう」と集まった会議が何度かあって、その時に、C.T.T.仙台事務局の人に「やりませんか」と声をかけられたのが作り始めたきっかけではありました。私は最初「ええ?本当にやるの?」という感じだったんですけど。ただ、他の地域の人たちが本当に協力してくれて。そうやって外の人と交流して、話をしたことが回復のきっかけになった部分がすごくあって。私たち、沿岸部の津波被害の酷さを見ているから、とても自分たちの話なんてできなかったんですよね。でも、他都市から来た人たちは私たちの話をすごく聞いてくれて。そうやって話すことで、助けてもらった感覚がありました。

谷津 その後に「はなして」という作品を作ったんですね。

生田 震災前に(劇団メンバーの)瀧原弘子の一人芝居をやる企画があって、作ろうとしていた矢先に震災があり止まっていました。震災後しばらくして作り始めましたが、言葉は散らばったままで、私はそれまでいったいどうやって書いていたのか、全く分からなくなってしまっていた。それで、風景とか、断片的なシーンをつなげて作ったのが「はなして」です。

 今思い出してみても、当時のことって言語化できないんですよ。あの時のことは視覚というか、写真のように見たままの状態を自分の中に溜め込んでいる感じで、言葉に変換されていない。今回、台本を読み返してみたら、あの時に連れ戻されるような感覚がありました。台詞も、その時の状況を説明しているわけではないんですが、連れ戻される感覚がすごくあって。これだけ時間を置いてから読んでも生々しい記憶が蘇ってきたことに驚きました。ただ、これを上演する時、お客さんも同じ感覚になってほしいわけではないんです。これだけ時間が経って、もう忘れたい人もいるだろうし、忘れられなくて苦しんでいる人もいる。そういう気持ちにフタをしてしまっているところに、そっとドアをノックするみたいに「あの日は、ここにありますよ」って伝えたいんです。「はなして」は一人芝居ですが、今回、周りに「見守る人」を配置しています。孤独にさせたくない、「傷を抱えていてもいいんだよ」と伝えたい。タイトルの「はなして」というのは言葉で「話して」と言う意味と、自分の身から「放して」の二つの意味があります。言葉にできず抱え込んだままの想い、あの日に縛られたままの気持ち、「それを、はなしても、平気だよ」と伝えたい。

 それと、「未来」を感じてほしいという思いもあります。私たちが今生きている時間は全部あの日の続きですよね。なので、今回の作品では子育てしている演劇人のお母さんたちにお願いをして、お子さんと一緒に舞台に上がってもらっています。子どもって、それだけで未来や希望だから。お芝居が始まる前に、俳優と子どもが一緒に舞台に上がって「震災の時どうだった?」という話をするんです。それを聞きながら自分のことを思い出してもらったり、あるいは震災を体験していない人でも「そんなことがあったのか」と思ってもらえればと。その後に一人芝居が始まる構成になっています。 

谷津 戯曲を読むととても短いですが、初演の時も同じ長さだったんでしょうか?

生田 同じです。これが、あの時に書けたもののすべてだったんです。そのまま普通にやったら多分20分ちょっとくらいしかない。なので、この作品だけで上演するのは難しくて、一人芝居のフェスティバルで上演したり、他の劇団の作品とセットで上演したり。いろいろな人たちの力を借りながら上演してきました。言葉が少ない分、身体表現であったり、言葉以外のもので作られています。

谷津 今回上演するにあたっても、戯曲には全く手を加えていないんでしょうか?

生田 全く加えていないです。最初、少しは変えようかと思ったんですがやっぱり無理で、この時のものを書き変えることはできないなと。それで、戯曲はいじらずに上演する際の構成を変えることにしました。

谷津 構成については俳優とも話をされたんですか?

生田 そうですね、最初はあまりやることを決めずに稽古場に集まってもらって。作りながらどうするか決めていきました。

谷津 「はなして」で描かれているのは、生田さんが見た風景ですよね。震災は、みんなが同じことを経験しているようでも、一人ひとり見たもの、感じたものが違うデリケートさがあったと思いますが、瀧原さんとはどんな風に作り上げていったんですか?

生田 そういうことでいうと、瀧原とでしか成し得なかったのかなと。私と彼女は小学校3年生からずっと一緒にいるんです。これだけ長く一緒にいて、劇団も一緒にやってきて、感覚で分かり合える部分はすごく多い。そうじゃなければ作れなかったと思います。

谷津 お客さんはどんな風に受け取られたんでしょう?

生田 普通のお芝居とは違う体験だったと思います。震災という共通の体験があって、でもお客さん自身の強い思いもそれぞれにあって、台詞であったり動きであったり、何かがフックになって、自分で自分の扉を開ける。そういうことだったんじゃないかな。簡単に感想を言える感じではなかったかもしれないです。どう思ったかということも含めて、お持ち帰りしていただいたというか。他都市での反応は仙台とは全く違うものでした。2011年の12月に東京で上演しましたが、反応が冷たくて。作品との距離感が分からないというか、「生々しさをどう受け止めたらいいか分からなかった」という人がけっこういて。あの時は「東京のお客さんはなんて冷たいんだ」って思ったんですが(笑)、そうじゃなかったんだなって、今回稽古しながら思いました。震災では東京の人たちも大変な思いをされていたんですが、「東北の人たちはもっと大変なのに」と、東北でも内陸部と沿岸部にあった差みたいなものが、被災地と距離が離れていたことで、より一層あったんじゃないかと。それで、自分たちも本当は傷ついてるのに、その傷を見ちゃいけないように感じてフタをしていたところに、生々しいものをポッと見せられたから、受け入れられなかったんじゃないかと。その時は分からなかったんですが。時間によっても場所によっても、本当に反応は違いました。

谷津 「はなして」は通常、三角フラスコでやっている作品とはかなり違う作り方でできた作品に思います。

生田 そうですね、普通の状態じゃなかったので。震災が起きたことによって、それまで自分の中にあったものがバラバラになってしまって、それを一つずつ拾い上げるような作業だったんじゃないかと思います。書き方すらも探して。「はなして」を書いた後にようやく会話劇に戻ってきて、台詞を台詞として書けるようになったので。だから、通らなければいけないプロセスだったのかなと思います。そうやって、アーティストとして回復していったんだと思います。

 

出産・子育てが与えた影響

(「はなして」INDEPENDENT:2nd Season Selection [2012年 撮影:INDEPENDENT] )

谷津 その後、大阪で別の作品を上演した後、2012年の8月に出産のために休団されました。

生田 はい。2012年の8月24日に出産しました。でもその年の冬に「あと少し待って」という作品の東京公演が決まっていたので、仕上がるくらいの頃に稽古場に行って。なので、休団といっても、行けるタイミングを見つけて稽古場に行くという感じでやっていました。

谷津 出産は生田さんにとってどんな出来事でしたか?

生田 私は自分が子どもを産むと思っていなかったので、最初はぜんぜん実感が湧かなくて。でも赤ちゃんって、一人では生きていけないじゃないですか。「この赤ん坊は、今私が離れたら死んでしまうかもしれない」という初めての感覚を知って。そういうことが、何かを変えていったような気がします。子どもは圧倒的に未来だし、希望だし、すごいなぁって。少し大きくなってからは、「伝えたいことはちゃんと言葉にしないと伝わらないんだな」ということに改めて気付いたり。

谷津  それは大人と話す時も?

生田 そうです。子どもと話すときに自分の思っていることをはっきり伝えるようになって、「あれ?私、今までこんな風に人とコミュニケーションをとったことがあったかしら」と。これまでは伝えたいことを曖昧にして、言わずに来てしまったんじゃないかと。そんな風に、子育てをしながら人との関わり方が変わっていったと思います。

谷津 それは作品作りにも影響していますか?

生田 そうですね、影響しています。「言わなくても伝わるだろう」とか「わからなくてもいいだろう」と思っていたことを、もっとはっきりと「こういうふうに届けたい」と考えるようになって。一番最近に書いた「コップの底の太陽」という戯曲があるんですが、これは、今までと台詞が全く違います。台詞が長い。それまでの作品は、一言一言けっこう短いセンテンスで書いていたんです。それが、この「コップの底の太陽」に関しては俳優にものすごく喋ってもらった。「台詞の量多いなぁ」って。

谷津 急にそうなったんですか?

生田 急に、と言っていいかもしれないですね。何の制約も無く本当に真正面から向き合って書いた作品としては久しぶりだったんですが、以前とは全く違うと思います。

谷津 言葉が増えたというのは、ご自身の中ではどんな変化だったんでしょうか?

生田 けっこう驚きというか。別に意識して長い台詞を書こうと思っていたわけではないんですが、一つ一つを置いてくというか書いていくと、そういうものが出来上がってきて。「コップの底の太陽」は戦争のことを書いてるんですけど、何年も演劇をやってきて書くものを書き尽くした感じもある中で、「今、どうしても自分がやりたいこと」に向き合った時に出てきたテーマだったんです。テーマがとても重たいのもあったと思いますが、書くのにすごく時間のかかった作品でした。自分たちにとって身近ではないことだし、そのために沢山喋る必要があったのかもしれません。

谷津 一方、今回上演する「はなして」は、言葉が少ないというか、言葉では何も語らない作品ですね。

生田 そうですね。(震災から)9年ですよね。今回やっているのは、その9年の「最初がどうだったのか」ということを振り返る作業なんですよね。私自身、忘れないと思っていたし、忘れたつもりもなかったんですが、でもやっぱり傷つかないようにしていたというか、見ないようにフタをしてしまっていたことがすごく沢山あったなと思ったんです。この作品自体は、その時点で何かを噛み砕いて作ったわけではなく、これしか出なかったということでしかないので、内容でそういうことを伝えているわけではないんですが。でもこの作品に向き合うことで、もう一度自分の中の震災に向き合うことができた。私にとってはそういう作品になりました。

 

舞台に垣根はない

(「はなして」INDEPENDENT:2nd Season Selection [2012年 撮影:INDEPENDENT] )

谷津 今お子さんが2人いらっしゃるということは、震災からの時間が経つ中でも、常に目の前にあることに対処し続けなければならなかった面があると思います。それによって、震災のことを忘れてはいないにしても、集中して考えることが無かったのではないかと。劇団のほかの女性メンバーの方にもお子さんがいらっしゃって、今回、お子さんと一緒に舞台上で話をするというのは、表現者である自分自身が子どもを育てていくということを、メンバーとあらためて考えることでもあったんでしょうか?

生田 そうかもしれないですね。今、いろんなことが分断されてるじゃないですか。子育てだったら子育てで、他の世界と交わらない。そうじゃないと良いのになぁと強く思っていて。ここ何年か、自分と違うものを拒んだり交流しようとしない、そういう垣根を社会に感じるんです。それが、生きにくくてすごく嫌なんですよ。でも演劇は、違う立場や意見を持った人たちでも、同じ舞台の上に立つことができる。舞台に垣根はない。ウチの劇団員の一人は独身で、子どもは産まないよと前から言っていますが、そういう彼女も稽古場で周りにいる子どもと関わり合い、本人も知らないうちに子育てに参加している。子どもがいようがいまいがみんな稽古に来たらいいさ。そんな彼女のような懐の深さが社会全体に浸透していったらいいですね。演劇って個人の役割がかなり明確なので、出るとなったら絶対にその人がやらないといけないじゃないですか。でも、今回出演してもらっている子連れの人には、「当日ドタキャンしても大丈夫だから」って言ってあるんです。「子どもが熱を出したら子どもを優先して」って。そういうことがあったとしても、作品作りの中で自分の思うことを言ってもらったりすることが作品にすごくいい影響を与えてくれるから、そういう不測の事態が起こることも含んだ上で作品作りを一緒にやってください、と。もし当日来られなかったら本人は残念かもしれないけれど、その時はそこにいる人間で話すし、その可能性を気にして「出れません」て言わなくていいよ、と。本番はもちろん大事ですが、稽古場という過程においても、絶対にその人でなければ得られなかった影響とか変化があると思うんです。

谷津 お話をお聞きして、子どもが舞台上にいることに意味があるという以上に、いろいろな立場のメンバーがありのままで自分のことを話すことに意味があるように思いました。

生田 そうかもしれませんね。作品との関係で言えば、子どもの存在が未来を感じさせてくれるというのはありますが、垣根をとっぱらいたかったというのが最初の動機だったのかもしれません。

(2019年12月13日 仙台にて) 

 

生田恵

仙台市出身。劇作家、演出家。1995年に三角フラスコを結成、初代代表を務める。以降、2012年までの38作品ほぼ全てにおいて作・演出を担当。2012年8月、出産のため一旦劇団の活動から離れるが2014年春に復帰。現在は、育児をしながら脚本を執筆するとともに、演劇の手法を用いた産み育てワークショップなども手がける。