せんだい演劇工房10-Box

仙台舞台芸術フォーラム プレトーク

屋根裏ハイツ『とおくはちかい(reprise)』

登壇者:中村大地(屋根裏ハイツ主宰・作・演出)、山内明美(宮城教育大学 准教授)

 

『とおくはちかい』の制作背景

(「とおくはちかい(reprise)」[2020年 撮影:桐島レンジ])

中村 この『とおくはちかい(reprise)』という作品は、2017年に作った『とおくはちかい』という作品からタイトルと設定をもらって、中身は全部書き換えてあります。今日は、2017年にこの作品を作ろうと思ったきっかけと作品の概略を最初にお話して、山内さんに応答していただいて進めていきたいと思います。
僕は2010年に仙台に来まして、「屋根裏ハイツ」という劇団を2013年に旗揚げしました。生まれは東京で、2018年に実家に戻って、今は東京で暮らしています。
東日本大震災を題材にして作品を作ったのは『とおくはちかい』が初めてで、きっかけは二つあります。一つは2016年に仙台であったトークイベントです。震災をテーマにした写真展のオープニングトークだったんですが、東京から来たゲストの方が話していた時に、物言いがちょっとその場から浮いて見えたんですね。そのことを東京の友人に話したら「東京ではむしろ、被災地の側にいる人の言葉がその場の空気となじまないことがある」と言われ、衝撃を受けました。もうひとつは、僕自身、震災直後のタイミングで、沿岸部にボランティアに行かなかったことをすごく後ろめたく感じていたということをしばらく誰にも言えなくて、ようやく話せるようになったのが5年くらい経ってからだったんです。それで、自分は5年だったけど、だったら10年とか、時間が経ってようやく話し始められる事があるんじゃないかと。また、当事者性というか、被災の中心地からの同心円のどこにいるかによって、言語化する速度や記憶の仕方みたいなものが異なるのでは?と思ったんですね。それも、この作品を作る動機になっています。
初演の時は「地震」とは言わずに、すごく大きな火災が起きた街という設定で脚本を書きました。その時は、「地震」と言うことで見ている人の頭に3月11日が想起されてしまうと、作品に集中できなくなると思いました。でも、2016年の年末に糸魚川でものすごく大きな火事(糸魚川市大規模火災)があって、さらに2017年の公演の直後に九州で豪雨災害(平成29年7月九州北部豪雨)があり、それから毎年のようにいろんなところで災害が起きて、書き換えた意味があんまり無いと思ったんですね。僕自身が今は東京にいることもあると思うのですが、今回はそのまま地震の話をした方がフェアではないかと思い、改めて地震の話として新しく書きました。
今回の出演者のうち一人は当時荒浜(仙台市)に住んでおり、けっこう大きな被災体験をしています。もう一人は山形に住んでいた人なんですけど、その二人の体験を聞きながら作品をつくっていきました。そういう経緯で、今日ご覧いただく作品があります。

 

演劇にすることは「未来語り」にすること

 

山内 中村さんも今おっしゃいましたが、この10年を振り返っただけでも、もちろん震災もあったし、世界中でもいろいろありましたよね。ジェンダーや性暴力の問題、戦後最大の障害者殺傷事件(相模原障害者施設殺傷事件/2016)もありました。ものすごく衝撃的な事件とか災害がたくさん起きていて、今はもう、誰もが何かの当事者なんだと思います。当事者から周縁、さらにその向こう側と、距離があることで摩擦が生じて、たくさんの人が傷ついていると思います。中村さんがボランティアに行かなかったことに後ろめたさを感じたみたいに、立場性がものすごく複雑にあってこの社会を作っている。
この作品では二人の人物が静かに対話しているんだけれども、すごく隔絶しているんですよね。隣同士にいてもものすごく距離がある。遠くて近いんです、本当に。考えることがたくさんある作品だと思いました。福島の中には、帰還困難区域でこの9年間ずっと入れない場所もあるし、その一方で、復興拠点になってまちづくりが進んでいる場所もある。一つの行政区の中でもグラデーションがあって、本当に近くて遠い状況が起きている。そこで共通言語を話すことは不可能に近い。言葉は語れないし、消失していくだけです。
演劇とかアートの役割は、多分これからなんですよね。三陸沿岸部でもいろんなアートイベントをやっていますが、みんな葛藤を抱えています。「こんなことやっててどうなるんだ」とかね。先月、美術批評家の方とZoomでお話する機会があったんですけど、その方は「災害の時にコンテンポラリーアーツなんて役に立たない」ときっぱり言っていました。でもね、これは語り部の人たちもそうなんだけれども、ある意味で予言者にならざるを得ないわけですよ。広島とか長崎のことが75年して風化していくみたいなことが言われているけれど、過去を語る言葉は未来の予言の言葉なんだと思うんです。たぶんこの先また戦争も起こるし、かなりすぐに地震は起こりますよ。津波もまた来ることがわかっていて、私たち、それに備えて練習しなくちゃいけないわけですよね。未来の言葉を獲得しなくちゃいけない。世界が崩壊して衝撃を受けた後に何も言えなくなる、何も作れなくなるのは当然のことで、けれどもこれから10年20年、まだまだ作っていくことはできる。私自身、東日本大震災で起きたことの全容を把握するなんて到底無理だし、三陸沿岸部を見ていても、今でもずっと津波を受け続けているような、何も止んでいない感じもするわけですよ。とても回復したと言えるような状況じゃない。えらく時間がかかるんですよね。いろんな歴史資料を見ていても、大きな飢饉があって村がほとんど全滅状態になって、もう1度村を立て直すとなると100年くらいかかるわけですよ。それだけの出来事だったんです。

 

中村 2015年か2016年、僕は東北大の6年生とか、そういう感じだったと思うんですけど、全国の旧帝大の運動部が集まって試合をする「七大戦」というのがあって、東北大が主幹校になったんです。その開会セレモニーで、交響楽団は葬送歌みたいなものを演奏して、演劇部も何かできませんかと言われたんですが、僕はそんなセレモニーのようなところで震災のことを言語化したくないと思ったんです。それで、3月11日の写真を映して「これは1896年に起きた三陸海岸大津波の写真です」と言ったんです。東日本大震災のような災害はまた来る。そう思っていた方が、言い方が正しいかわからないですけど、安心感があると思った。もちろん二度と来ないで欲しいけど、どうせ来るなら、もう一度起こると思っていた方が安心できると思った。それを今、思い出しました。

 

山内 過去の記憶が失われることを「風化」と呼んで、みんなすごく恐れている気がするんですが、でも、それを今に固定するのではなく未来語りにしていくことが、演劇とか、アートとか、語り部の仕事、役割だと思います。中世辺りの占い師もおそらくそういう役割ですよね。そうして人は生きてきたんだと思います。

 

中村 ただ、演劇ってすごく生で。今は映像での配信もあるけど、それはやっぱり別物で、生で同時代に立ち会うのが演劇だといった時に、ある種の心許なさというか、弱さみたいなものを感じる部分はあります。ネガティブに思っているのではなくて、それが好きでやっているんですけど、本当に少人数の人しか立ち会えない。大きい時間軸でとらえた時に、メディアとしての演劇の心許なさみたいなものを感じることはあります。

 

 

『とおくはちかい』の対話スタイルはどのように生まれたか

(「とおくはちかい(reprise)」[2020年 撮影:桐島レンジ])

山内 今回の『とおくはちかい(reprise)』は2人の対話形式で進んでいきますが、あれは昔からのスタイルなんですか?

 

中村 いえ、『とおくはちかい』の初演で初めてやりました。それまではお客さんに向かってしゃべったりしていましたね。制作秘話的な話で言うと、初演の台本を書く前に二人の役者とプレ稽古をしたんです。3日間毎日8時間、全部で24時間くらい。プレ稽古では、一人がもう一人の家を訪ねてきた設定で二人でダラダラしゃべってもらう、ということをしました。その雑談の最中にたとえば、「3月12日の朝、何を食べましたか」とか、そういった質問を傍から見ている僕が投げ込んで、それを餌にしてただ二人でしゃべってもらう。初演は男性ではなく女性の役者が二人だったんですけど、その二人の会話を見ながら、「けっこう見ていられるぞ」と思った。ずっと見てられる退屈さというか、退屈だけど1時間くらい見てるとめちゃめちゃ面白くなってくるみたいな。そこですごく手応えを得たので、それを戯曲に落とし込みました。
それから、そのエチュードではちょっとしたルールを設けていました。まず一方が、自分が過去に本当に体験したことをしゃべって、もう一方がいろいろ質問したりする。次に、聞いていた方の人が、さっき聞いた話を自分が体験したかのようにコピーしてしゃべる。それに対して、今度は話の元ネタである側が質問をするんですが、答えられない時は黙っていていいことにしたんです。わからないと思ったら、嘘はつかなくていいと。それで、一人が「震災の時に停電の中で家族でご飯を食べた」みたいな話をして、それをもう一人がコピーして話して、質問された時に答えられなくなったんです。黙っていいと言われても、役者は何かしら言語化しようとしちゃうんものなんですけど、本当に2分くらい黙っていた。その時間は何も考えていないわけじゃなく、すごくいろいろ考えて、お互い探り合ってて、雄弁な沈黙でした。そういうワークショップを経て、偶然生まれたのが「とおくはちかい」の上演スタイルです。

 

山内 それはお芝居で、ある程度方法を設定してやっているからできることかしら? 私たちの日常でも、全く違う体験をしている人同士が話をするって、すごく多くなっていると思うんですが、そういうことって日常でもできるでしょうか。

 

中村 稽古場という状況がそれを許していると思います。演出家と俳優というのは、ある種の安全性を確保することは絶対に必要ですが、その上で演出家がこれをやってほしいと言ったら俳優がそれをとりあえず実践してみる、という関係性が成り立っている。演劇じゃなかったり、俳優じゃなくても、コンセンサスが取れていればできるんですけど、ファミレスではできないですよね。稽古場というのは、そういう負荷を与えても大丈夫な状態にある。そうでなければ、2分黙るとか、震災の体験談をコピーして語るようなことは要求できないですね。

 

山内 ある種の暴力性があって成立している。

 

中村 それは構造上絶対に生じるものなので。俳優にストレスが起きないように努力はしていますけれども、演劇の現場にはそういう構造が絶対にあると思います。

 

 

「役に立つ」演劇

 

山内 最近、シングルマザーの友達が3日に1回、電話をよこすんです。昨日も2時間くらい話をして。彼女は外国人で、震災の前に日本に来て、博士論文を書いたすごく優秀な人です。子どもは日本語しか話せなくて、永住権を取ろうと思ってる。でもそれには、納税義務とか、超えなくちゃいけない壁がいろいろとある。正規雇用されていないとダメなので、今、会社で仕事をしているんですが、会社の中で辛くあたられているんですね。そのストレスで、このところ私に電話をかけてくるんです。だけどやっぱり、このお芝居みたいな対話ってなかなか成立しにくくて、聞いている側もいっぱいいっぱいになってきてしまうんですね、3日に1回、彼女のストレスを丸かぶりするようなことになると。でも彼女は、今ここで頑張らないと永住権が獲得できないから、なんとか喧嘩もしないようにして、這いつくばって生きている。そういう人が、多分すごくたくさん、この国にはいる。「あなた、私の気持ちわかる?」って彼女が言うんです。ちょっと状況が違うだけで、そのしんどさは当事者にしかわからないんですよね。どんなに近くで話していても、友達でも、壁がある。そういうことが今、蔓延している状況になっている。完全に理解しあえるなんてことはありえないと思いますが、なにかお芝居というものにヒントがあるような気がしています。

 

中村 このお芝居では、実際の経験を語り合う稽古は踏まえているけれど、テキストは僕が創作しているのが大きいかもしれません。おっしゃるように、完全には理解できない相手と話をする時に、相手の感情にどう触ったらいいのかを探り合うみたいなことって、日常ではできないじゃないですか。僕も日常であれば、もっとすぐに怒っちゃったりするし。あんなに淡々と、周りだけをさわるようにしゃべるって本当に難しくて。でも演劇の世界では、台本を通過することで、実際にそういう会話をするためのレッスンじゃないけど、良いサンプルみたいなものを提示できるというのは、ある気がします。そういう意味で役に立つというか、サンプルを眺めるみたいに使えるなというのは、ここ数年思っていることではあります。理想的でちょっと非現実的な会話を眺めることで、手触りを確かめてもらうような。

 

山内 中村さんはよく「役に立つ演劇」とおっしゃっていますが、そういうことを言う人はめずらしいですよね。もう少し上の世代の人には怒られそうです。

 

中村 7年くらい言ってるんですけど、もうちょっと違う形で言語化した方がいいとも言われます。「役に立つ」というのは、単純に便利だとか、感動するとか、そういうことじゃないんです。現実のオルタナティブというか、現実とは違うもう1本の線みたいなものをフィクションは書けるわけで、ああいう会話を見ることがある意味役立つだろうということなんですけど。僕もあまりうまく言語化できていない感覚はあります。

 

山内 私、実は若い頃に演劇に挑戦したことがあるんです。10代の後半から20代の頭ぐらいまで、寺山修司にかぶれていたんですよ。90年代に日本文化デザイン会議が青森県で開催された時に、天井桟敷を一日だけ復活させるというので市街劇のキャストを募集していて、オーディションを受けに行ったんです、青森まで。白塗りして、舞踏の歩行の練習とかさせられて、市街劇なので、街の中でいろんな演劇をやるんです、総勢何百人で。その時に、逮捕された女の子がいて。その子は「書簡演劇」というのをあてられて、電話帳から無作為に人を選んで、その人にストーカー行為をして、行動歴を記録してそれを毎日書くんです。それをやってた女の子が逮捕されちゃって。青森県がやった企画の一貫だったんですけどね。それで一晩留置されて、翌朝、J.A.シーザーさんという演出家が迎えに行って引き受けてきたんですよね。それは本当に役に立たない演劇だなあと。

 

中村 「役に立つ」って言っちゃうと、より実践的だったり、便利だったりというイメージが先走ってしまいますが、役に立つのはそういうものだけではないと思うんです。例えば僕にとって、『ぼのぼの』(いがらしみきお)の36巻は役立ち書なんです。ぼのぼのたちが、木が枯れちゃうからと言って見に行って、山の頂上でただ木を見てる話なんですけど、それは僕にとっては、折りに触れ読み返す「役立つもの」なんです。そういう、誰かにとってある種の支えになるようなこと。誰か一人でもそういう人がいたら、それは役に立つと言ってもいいのではないかと思います。演劇の一般的なイメージ、大きい声でしゃべって笑って泣けて、みたいなものとは対局なんですが、小難しいものをやっているつもりはないんです。見たらわかると思っていて。

 

 

地方の演劇と時代性

(「とおくはちかい(reprise)」[2020年 撮影:桐島レンジ])

山内 私が10代後半に寺山にかぶれたのは、自分の育った南三陸の村があまりに息苦しくて、法を跨ぐというか標準を超えるというか、何かもう少し広い世界があるという期待感みたいなものがあったように思うんです。一方で、寺山が演劇を作っていた時代は、日本は右肩上がりだったんですよね。いろんなことが上向きだった時代。終身雇用で所得倍増みたいな、10年後が今より良くなっていると思えた時代だったけど、今は1年先もわからない。去年の今頃は、大学が全部遠隔授業になって、毎日マスクで生活するようになるなんて思いもしなかったですよね。そういう網の目から、何人たりとも逃れることができない中でお芝居作っているというのも、やっぱりありますよね。中村さんの作品は、こういう先が読めない時代をある意味で体現する作品なのかもしれないですよね。

 

中村 寺山は寺山で、あの時代の風景に対峙するものとしてああいう形をとっていたわけですが、 僕らは閉塞感というか、停滞したり落ち込んでいくのがデフォルトの体感を持っていて、殴られて刺激を与えられるみたいなことに疲れてしまった感覚はあるかもしれないですね。

 

山内 中村さんは90年代生まれで、しかもお芝居を作り始めた時期が震災と重なっていて、大きな転換期の後に作り始めた作家の作品として見ることができますね。

 

中村 もしも震災前からやっていたら違っていたでしょうね。2010年の仙台の空気も、見に行く側としてギリギリ知ってますけど、そこから出発してはいないので。

 

山内 中村さんが仙台に来てお芝居を作る少し前って、青森だったら三内丸山が発見された後で、蝦夷をテーマにした一人芝居をみんなで見たり、今の地方創生とはちょっと違った形で、地方が自分たちの地域を勃興する雰囲気があったんですね。その後没落していく前の端境のところですよね。だからやっぱり、中村さんの制作には、そういう時代の変化をどう受け止めて表現していくのかが現れている感じがするのかな。

 

中村 演劇って不思議なもので、映画や音楽は同時代に流行っているものは全国的に共通なんですけど、舞台は共有するのが難しくて。当時、東京では平田オリザさんや岡田利規さんのような、いわゆる「静かな演劇」がもうメジャーになっていたんだけど、仙台では2010年くらいでもまだ浸透していなかった。それは仙台で活動するプレーヤーの方々の好みだったり、目指すものと「静かな演劇」とがあわなかった、というのもあるのかもしれないと思うんですけど、全体としてはもうちょっとアングラの気配みたいなものが引き続いていたイメージです。もちろん、三角フラスコのように静謐な会話劇をするカンパニーはありましたが。僕の先輩たちが震災後からやっている「劇団 短距離男道ミサイル」は、「脱いで騒いでお祭りだ」っていう感じなんですけど、そういうことの方が時間軸的には馴染んでいるような。細かい物語というよりは、奇抜さとか激しさをパフォーマンスとして出す。僕はそれもとても好きです。Theatre Group OCT/PASSという劇団だと、倉庫を全部仮設で組んで、潜水艦みたいなのが出てきて水が客席にはねるみたいな、そういうアングラのイズムというか。震災があって、子どもたちにアウトリーチをしに行くなど、やる場所が変わったり、時間を経て変わってきているところもあるとは思いますけど、仙台の演劇は根底にそういうものが流れている感じがします。

 

 

自分の身体に他者を通過させる

 

山内 せっかくなので、会場のみなさんからも「遠くて近い」お話をお聞きしてみたいと思いますがいかがでしょうか。(客1)さん、どうですか?

 

客1 福島県で高校の教師をしています。演劇部で、ずっと震災をテーマにした作品を作っていました。まさに生徒の間でもグラデーションがあったので、それこそ「近くにいながら何を考えているかわからない」という状況をお芝居にしましたね。

 

山内 原発から31km圏の生徒がお話してる作品なんですよね。30kmまでの人は避難指示が出て避難したんだけど、31km圏の人は避難しなくて、それはどうなんだっていうことを高校生が話すという。

 

客1 タイトルが『緊急時避難準備不要区域より』っていうんですけど、「避難準備不要区域」というのは造語で、そのことへの違和感をあからさまに表現しましたね。

 

山内 ほんとにグラデーションだらけで。同心円の真ん中と周縁での対話の難しさみたいなものが、今回の作品と通底しているところだったように思います。

 

客2 先ほど、わかりあえない者同士で会話をすることが日常でもできるかというお話があったんですが、私はファシリテーターの勉強をしていて、先日受けた講座の中で、対立する立場をお互いに体験してみるというワークショップがありました。最初、それぞれ自分の役のつもりで会話をして、次に立場を交換して会話をするんですが、最後に、やってみてどう感じたかを話し合うワークをするんです。最初に会話のシュミレーションをした時、対立が起きてすごく悲しい気持ちになったんですが、最後に感想を話しあった時、相手の方が「逆の立場になってみて、気持ちがすごくわかりました」と言ってくださって、泣きそうなくらい感動したんです。お話をお聞きして、もしかしたらあれは演劇的な手法で「遠くて近い」会話を体験する一つの手段と言えるのではないかと思いました。

 

中村 それはきっと、対話が対立してしまう部分ではなく、それを通過した後のフィードバックの部分が、相手のことを想像して探り合うような対話になったのだろうと、お聞きして思いました。 立場を変えてしゃべることそのものは辛い、ハードな体験なんだけど、視点が違うものを自分の身体を通してみることで、確かに手応えというか、違う身体の感覚みたいなものが生まれるのではないかと。フィードバックの時間が、ある種の理想的な対話に近い状態になるんだろうと想像します。

 

山内 自分とは違う誰かを演じるということに、なんというか、とても重大なことがありますよね。こんなにも、日常の中にいろいろな分断線が引かれていたり、言葉が剥奪されていく状況の中で、演劇でそれを獲得できる可能性があるというか。

 

中村 演劇がすごいと思うのは、「ここはアメリカです」と言えばここをアメリカにできるんです。「私はリア王です」といえばリア王になれる。着飾ってもいいけど、このままの格好でもいける。もちろん、それを舞台化して見せられるものにするのは俳優さんの特殊な技能であると思うんですけど、自分の身体に他者を通過させることは誰でもできる。そうすることでしか体験できないものはあると思います。

 

山内 その時役者さんというのは、リア王だったらリア王の世界を頭の中で再構築するわけですよね。その時に、再構築するためのいろいろな要素を頭の中に書き込むんでしょうか?

 

中村 演劇が特殊なのは、その場にいるということがとても重要だということです。ここじゃないどこかの話なんだけど、でも今、ここでやっている。だから、なんていうのかな、「言えばそうなる」と思っていて。言った時に違和感が無いように、想像したりコンテクストを埋めていく作業は必要でしょうが。

 

 

被災の中心と周縁

(「とおくはちかい(reprise)」[2020年 撮影:桐島レンジ])

 

山内 今回の作品は、本当の当事者が演じているわけですが、その作用とはどういうことでしょう?

 

中村 二人の役をひっくり返すことはありえないと思って書いていました。他の芝居では必ずしもそうではないけれど、この台本に関しては、他の人がやることも想像できないし、彼らじゃなきゃできない。作中のエピソードはすべて僕が書いたもので、本人の経験は一つも出ていません。でも、彼自身が同様の経験を通過しているというコンテクストを持たないと、見るに耐えないものになってしまう。役に自分を近づけるのではなく、本人がそのままでしゃべっているような状態にまで、役の方を彼ら自身に寄せていってもらうんですが、あくまでも違う人物ではあると。
当事者が当事者のまま事実を語ると攻撃力が高すぎるというか、圧倒的に正しいものになってしまうんですよね。被災体験とか、戦争の体験とか。一対一で本人の語りを聞くのと違って、演劇という嘘の場にそのドキュメントを持っていってしまうと感動ポルノになりやすい。絶対に太刀打ちできない正しさを持ってしまう。だからフィクションにして距離をちょっと空けることが、演者にとっても見る側にとっても安全だと思っています。

 

山内 そこも、遠くて近いところですね。

 

中村 普遍化していく作業なのかもしれないです。普遍的なものを書こうとは思ってないけど、演劇の現場で起こる実際的な問題を解決していくとそうなっていくというか、本人が本人の本当のことを言う危うさを回避したいというか。演劇って、上演の度に何回もセリフを言わないといけないんですよ。そうすると、毎回本当の経験を思い出させることになる。それってすごくしんどいことだと思うんです。だから、限りなく重なってはいても別の人が書いたものにすることで、本人にとっても安全になると思っています。

 

山内 それはすごく大事なことですね。当事者が出ているけれども、演出家がきちんとシナリオを作って創作をしているということですよね。
医療人類学でトラウマの研究をされている宮地尚子先生という方がいて、災害や性暴力や、拉致監禁の被害者についても研究をされているんですけど、「環状島」というモデルを提唱されています。カルデラ湖を思い浮かべてもらえればいいんですけど、真ん中はカルデラ湖なので水が入っていて、周囲を尾根が囲んでいるんです。カルデラの底は被災の中心地で、無数の犠牲者が沈んでいるんですね。つまり、もっとも傷ついている人は言葉を発せない、もう言葉を奪われている状態なんです。 核心部分に迫れば迫るほど発声できなくて、周縁の山にだんだんと登っていって、尾根のところにいる人たちがやっと言葉を発せられる状態にあるという、そういう図があるんですけど、たぶんそういうことで、当事者の言葉は、傷つきの度合いが重すぎるがために消失してしまう。だから、そこを代わりにテキスト化する、創作を入れることで芝居にする必要があるというのは、確かにそうだなあと思いました。イタコみたいな、消失している言葉を再現する仕組み、カルチャーも東北にはあるわけですよね。中村さんの創作の核心部をうかがえたような気がしました。確かに近くて遠い。カフカみたいですよね。中心をくるくる回ってなぞっていくような。痛みをなぞりながら対話が進んでいくような感じ。

 

中村 東日本大震災に限らず、本当の中心というのは想像できなくて、周辺を触っていくしかない。 そこでようやく言葉が見つかるというか、ようやく話ができる。それは聴く側にとっても語る側にとっても同じなんじゃないかと思います。一方で、自分は社会的にはどちらかといえばマジョリティの方にいる自覚がある。核心から遠いところから話を聞きに行くしかない時に、「実際には想像できない」とか、「周縁しか触れない」と言ってしまうこともまた危うさを持っていると思います。「#Me Too」とか「Black Lives Matter」もそうですが、中心部から強い言葉を発するには、ポリシーがあってスタイルがあって、ちゃんと理由がある。それを「想像できない」と言ってしまいうることの暴力性に、日常生活の中ではちゃんと打ちひしがれていかなきゃいけないとも思っています。

 

山内 やっぱり、当事者を役者に起用しているところがポイントなんだと思います。核心部の当事者を起用しているんだけれど、その俳優が語るのは中村さんが創作した言葉で、彼自身の言葉ではないわけですよね。そこにあえてズレを作りながら、近いんだけれども遠いという揺らぎの中で、考えることをやめない、という作業をしないといけない。単純に強い当事者の言葉を受けるというだけでは、終わらないわけですよね。

 

中村 舞台にする、という、作品として不特定多数の人に観てもらうというときに、そういう作業が必要だと思います。

 

山内 中村さんが核心の言葉を聞いて、そこから自分で思考して創作した言葉で芝居を作っていった結果がこの作品だということですね。とても理解が進みました。ありがとうございました。

 

 

(2020年9月19日)

(構成・編集:谷津智里)