せんだい演劇工房10-Box

仙台舞台芸術フォーラム

シア・トリエ『キル兄にゃとU子さん』アフタートーク

登壇者:大信ペリカン、生田恵、萩原宏紀

 

70年代生まれの東北の劇作家

(「キル兄にゃとU子さん」2021年 撮影:岩渕隆)

萩原 今回『キル兄にゃとU子さん』が、2011年6月の初演から約10年を経て再演されました。ペリカンさんと生田さんは震災前からお知り合いだったんでしょうか?

 

生田 確か99年頃だと思うんですが、日本劇作家協会東北支部のイベントで「70年代生まれの東北の劇作家たち」というトークイベントがありまして、その時にペリカンさんに仙台に来ていただいて、そこでトークをさせていただいたのが最初ですね。 

 

萩原 99年だと今から20〜21年前で、まだお2人とも20代の頃ですよね。ペリカンさんはその頃から仙台とはご縁があったんでしょうか?

 

大信 その直前に、うちの劇団で仙台公演を1回やったんですよ。それを生田さんが気づいてくださって、福島にも同年代の70年代生まれの劇作家がいると知ってもらえた感じでした。

 

萩原 私自身はもともと大阪の生まれで、いわきアリオスで務めているのは2012年からなんですが、記憶をたどると、2008年くらいに大阪の精華小劇場で三角フラスコさんの作品を見せていただいたのを思い出しまして。当時、90年代後半から2000年代にかけては、大阪公演なんかも積極的にされていたんですよね?

 

生田 劇団を結成した時、当時のうちのプロデューサーが「劇団というのはツアーに行くもんだ」と言い出しまして、3年目くらいからツアーに出ていました。東京と大阪に行っていたんですけど、大阪の方に非常によくしていただいて、続けて見ていただいたり応援していただいたので、大阪には欠かさずに行っていました。

 

 

『キル兄にゃとU子さん』の10年前と今

 

萩原 『キル兄にゃとU子さん』もかなりあちこちで上演されていますね。

 

大信 2011年の6月に東京で初演して、その後、秋に仙台と横浜でやって、翌年くらいからはリーディングの形なんですけど青森の県立美術館でやったり、横須賀でやったり、北九州芸術劇場の役者さんと一緒にやったり。ドイツの劇団がやってくださって、次の年に我々もドイツに行って上演したり、自分の作品としては珍しいくらい再演をしている作品で。言い方がいいか分からないですが、恵まれた作品でしたね。

 

萩原 東日本大震災後、一発目の作品ですか?

 

大信 一発目も一発目ですね。2011年の3月に震災がありましたけど、その前に、6月にフェスティバルに参加するために公演をやることは決まっていたんです。タイトルも決まって、作り始めていた時に震災があって。震災後って、演劇関係者はみんな一度心が折れたじゃないですか。やるかやらないかからみんなで相談して、やろうということになったら今度は「震災を取り上げるのか予定通りいくのか」を話し合って。「やっぱり震災を取り上げたい」ということになり、でもスッとはできなくて、パンフレットにも書いたんですけど、絞り出すように作った作品ですね。

 

萩原 最初に予定していたのとは全く違うものになりましたか?

 

大信 震災が起きた時にはまだほとんど書いてはいなかったんですけど、「新聞屋の息子が街中に新聞を散らかしている」という設定は、もとは古本屋の息子の予定でした。古本屋の息子が散らかした古本の切れ端から物語を紡いでいこうかなと、ぼんやり考えていました。

 

萩原 生田さんは初演をご覧になったとのことですが、約10年ぶりに見ていかがでしたか?

 

生田 当時見た時はすごく怖くて、テンパったことを覚えているんです。劇中に振動音がありますよね。あれにもダイレクトに感情を揺さぶられたし、舞台上に降り積もってくるものが放射能だと思っていて、すごく「怖い」と思ったのが印象として残っています。でも今回10年ぶりに見て、そうじゃなかったんだなと。演出も変えられているとは思いますが、報道に埋もれて、飲み込まれて、切り刻まれてしまった人々の生活、そこに生きていた一人ひとりをちゃんと舞台上に存在させていたんだと。ペリカンさんにしか書けなかった作品だと思います。それと同時に、報道の被害に遭っているみたいな部分に関しては、自分にも責任があるような気がしてしまって。他人事としてとらえているつもりはないんですけど、いつの間にか加害者になっていたんじゃないかと思ったりしました。でも最後、めちゃくちゃ復興しようとしてたじゃないですか。それがものすごく逞しいなと。こんなに切れ切れにされて、埋もれさせられて、でもそこからバカみたいに元気に立ち上がろうとしている、その情熱にすごくグッと来てしまいました。

 

萩原 何度も再演している作品ですが、脚本は変えているんでしょうか?

 

大信 今回少しだけ変えましたが、それまでは変えなかったです。

 

萩原 生田さんから10年前と今回の差異についてお話がありましたが、それは意識して仕掛けているものですか?

 

大信 今回、初演と演出を変えたのは、初演では最初から島の上に建物を並べておいて、年表を読み上げながら過去を振り返って確認するような形だったんですね。それを今回は、街を作り上げていく過程に合わせて人形を並べていって、震災でそれが一度おじゃんになって、それが復興していくという演出にしたんです。たぶん、初演の時にはそれはできなかったというか、思いもつかなかったはずです。その時は、まさに壊れた瞬間に自分がいて、これからどうなるか全くわからない状態だったので。最後に歌うところは台本には「立ち去らない行進曲」って書いていて、福島にみんなでエールを送るような感じで歌っていたんだけど、10年経つと何かしら現実においても復興は進んでいて、福島の人たちが10年間頑張ってきた、そのことも作品にしたかったんです。

 

 

10年が変えたもの


(「キル兄にゃとU子さん」2021年 撮影:岩渕隆)

萩原 お二人は、震災からの10年とその前の10年で、劇作家としての変化はありましたでしょうか?

 

大信 さっき話が出た「70年代生まれの演劇人」というトークショーには、ほかに当時仙台にいたサイマル演劇団の赤井康弘さん、盛岡の劇団よしこの大沼由希さんがいて、本当にそれぞれが各地で頑張っていたんですよね。生田さんの三角フラスコもものすごい数の公演をしてたし、僕らもあちこち公演しに行ってた。私自身が演劇をやる上でのテーマは、何か自分のスタイルを見つけ出すことで、まだ見つかってないんですけど(笑)スタイルを探す作業を若い時にむちゃくちゃ積極的にやってた。だからうちの作品は毎回違うことをしてる感じがあって、それは今でも失われてない気がするんですけど。震災のせいかわからないけど、最近「いいもの」ってすごくわかりやすくなっていて、もしかしたら自分自身のスキルが上がったのかもしれないけど、何をどうすればどうなるかわかってきたような感じがするんです。でも、逆にそれに「乗っからないぞ」と、今回の作品で思いました。

 

萩原 いわゆる王道というか、こうすればお客さんがウケるだろうとか、楽しめるだろうということはあえてやらないと。

 

大信 そこに行っちゃいかんということに気づいたわけです。僕自身、この作品をずっと見てきましたが、昨日、お客さんが入っている状態でもう一度マジマジと見て、あらためて「この作品は売れはしないな」と思ったんです、売れるか売れないかで言ったら(笑) でも自分はこの「売れない作品」を作る方に行こうと思ったんです。

 

萩原 「売れない作品」を自由にやれる豊かさ、みたいなこともありますよね。生田さんには変化はありましたか?

 

生田 さっきペリカンさんもちょっと言われましたが、うちは本数ばっかりいっぱいやってた劇団だったんですよ。若い頃は勢いでやっていた部分があって。震災の後の2012年に長男を出産しまして、それ以降は子育てをメインにしているので、ペースがゆっくりになっています。子どもと接する中で「伝えたいことははっきり言わないと伝わらないんだな」とわかったりして、少しずつ変わっていったかなと。生活の中で感じるものが変わったので、最近の作品と以前の作品とは違うとは思いますね。昔は他人とわかり合えないことが出発点で、わかる人がわかればいいみたいな、突き放している部分もあったと思うんですけど、今はわからないからこそわかりたいというか、わかってほしいというか、そういう気持ちが昔より強くなったように感じています。

 

萩原 お子さんを出産されたのが転機になっていると。今は活動をゆるやかにされていますが、三角フラスコの活動はこれからも続けていくのでしょうか?

 

生田 うちは代表がのんびりしているので「その時々にやれること、今やりたいって思うことをやっていこう」なんて劇団内では話しています。

 

萩原 そういうのは地方の演劇の一つのあり方というか、魅力かと思います。東京で劇団をやっていたら、次々に公演を打って、次々に劇場も大きくして、っていうように、何かに追われながら続けているところがあるけれども、地方の場合、売れなかったとしても自分たちのやりたいペースに合わせてやっていけるのは、先ほども少し触れましたが、地方の演劇の豊かさかなと思います。
どうなんでしょう、「2011年の前後でどう変わったか」という切り口ってあると思いますが、実際に10年を振り返ってみて、変わったことがあるのか、逆に無いのか。

 

大信 どうなんですかね。僕自身はわからないところもあって。ただ、震災当時のインパクトはすごくあったわけですよね。それでこの作品が生まれた。今、この状態でこの作品が生まれるかというとやっぱり生まれないので、その瞬間瞬間の空気のようなものはあるなと。ここ1年の新型コロナウィルスへの不安というのもやっぱり大きいと思うんです。特に1年くらい前のただならぬ不安、社会に気持ち悪い空気感が漂っていた感じは、震災の時とちょっと似ている気もして、さっきの公演を見ながらコロナのことも考えたりして。ただそれが物事を変えるかというと、そこまではまだ整理がつかないですね。

 

生田 震災の時って一度全てが壊れたんですよ。感情も思考も生活も全てが壊れてバラバラになってしまって、そこから考えたり、ものを作り出すことが一度全部できなくなってしまって。そこから一つずつ丁寧に拾い上げる作業を積み重ねていって、ようやく自分自身も回復してくるプロセスがあったと思うんですね。それを境に何かが劇的に変わったということではないんですけど、一度傷ついてしまったものを作品作りを通して少しずつ回復させていった。その始まりが震災という出来事で、今の私達はその続きでしかないので。今というのは、必ずどこかの時点の続きの未来ですよね。ずっとつながっていることは感じるんですけど、震災の前後で、すごく変わったという感じではないかもしれないですね。

 

 

「自分に起きたこと」を描く

 

萩原 ペリカンさんは福島の作家で、生田さんは仙台の作家で、同じ2011年3月11日を語る時に、同じ土壌で語れない部分があるのではないかと思います。つまり原発のことなんですけど。同じ震災で、津波の被害はどちらもありましたが、原発のことがかなり福島を特殊にしている部分はあって、それにより10年という時間の流れ方が違うのかなという意識があるのですが、お互いの作品を見て何か感じる部分はありますか?

 

大信 僕は生田さんの作品を見て、僕の作品と似ているかもしれないと思いました。2人とも「自分に起きたこと」を書きましたよね。そこは似ているかなと。この作品を作る時に思ったのは、これをやったら「福島は危ない」と思われるんじゃないかと、それがすごく心配で。危ないかどうかはわからなかったし、今でもわからないんだけど、風評被害なのか実被害なのかもわからない状況で何かしら話題を作ってしまうのが嫌でした。原発事故を描くにあたって、僕自身は原発に対する主義主張は持っていなかったしそういうものを出したくもないと思ったんです。でも一つ思ったのは、この事故が起きてしまったことに自分も加担してしまっているなと。それは描きたいと思ったんですよ。姿の見えない「U子さん」に当事者性を問いかけるような作品にして、俺自身もU子さんなんだよ、ということも含めて提示したかった。だから、僕も生田さんも震災を外から捉えてはいなくて、渦中で自分がどう感じたかという、自分の立ち位置を示すことにチャレンジしたところは似てるかなと思いました。

 

生田 そう言われると納得です。当時私たちは、自分たちで公演を打つことはとてもじゃないけどできなかったので、他の地域の方に呼んでいただいて上演していたんですね。呼んでもらって行くと、横浜とか大阪の人もなんとかして書こうと立ち上がって作品を作ってくださっていたんですけど、彼らがやっていたのは「外から見た震災」だったと思うんです。そこには、外にいるしかない葛藤とか苦しさみたいなものもあって、それは私の作品には無かったと思います。私自身の中にも「被災しました」と言っちゃいけないんじゃないかという葛藤はありました。うちは内陸部で、大きな揺れは感じましたけどそれ以外の被害は無かったので。でも、同じ地域の中で震災を経験した人たちに寄り添いたいと思って、作品を作っていたんですけれども。遠くにいた人たちは「自分が震災のことを書いちゃダメなんじゃないかと葛藤した」と言われる人もいました。

 

萩原 遠くの人が書いたら嫌な気持ちはありますか?

 

生田 それはぜんぜん無いです。でも、外の人はそういう意識を持っていたみたいです。最初、そこを乗り越えるのがすごく大変だったと聞いたことがあります。

 

 

試行錯誤を続ける

(「キル兄にゃとU子さん」2021年 撮影:岩渕隆)

萩原 シア・トリエとしては未来に向けての野望はありますか?

 

大信 今、地元にアトリエを作っておりまして、4月あたりにオープンしようと思っているんですが(※コロナ禍により延期。5月にプレ・オープン企画を実施予定)、そのこけら落としはこの『キル兄にゃとU子さん』でいこうかなと思っています。すごく狭くて、ソーシャルディスタンスを保つと8人くらいしか入れないんじゃないかな(笑)これからコロナ禍がどうなるかわかりませんけれども、末永くそこでやっていきたいなと。これまで出会った人たちとのネットワークというか、縁が各地にできているし、仙台のトークショーで出会ったサイマルの赤井さんの劇場でこの作品は初演を迎えているし、そういう縁のあった人たちが福島に来て公演していただけたらいいなと思っています。名前は『ATELIERブリコラージュ』といって「ブリコラージュ」は「試行錯誤」という意味なんですけど、福島の劇団もここで試行錯誤しながらいろいろ作品作りしてほしいという思いをこめて、今、試行錯誤しながら作っています。

 

萩原 本当は去年オープンする予定だったんですよね。コロナ禍の状況を見ながらというのもありますが、出来上がったらぜひみなさんにも注目していただけたらと思います。
最後に客席からも質問をお受けしたいと思います。

 

客1 男性の出演者が櫛を持って何度も髪をかき上げてポーズをとるのがすごく印象的でした。あのポーズにはどんな意味があるのでしょうか。

 

大信 あのポーズは実は今回作ったんですけど、今回のリクリエイションのテーマとして、3人のキャラクターづけを以前よりハッキリさせたかったんです。3人それぞれがそれぞれのU子さんを探しているのがすごく大事で、その3人が最終的に多くのU子さんに祈りを捧げる作品にしたかったので、三者三様にしたかったんです。一人ひとりにキャラクターがついていて、男はまだ見ぬU子さんに惚れていて、U子さんに会いたくておめかししている。チケットが欲しい人は、U子さんととにかく電話でつながりたい。もう1人は、幼い頃につないだ手の思い出でU子さんとつながっているということで、それぞれのキャラクターを抽象的に表現しようと思って。だから男については、おめかしをしているポーズでキャラクターを表現しました。

 

客2 舞台中央の島のようなものを吊っている糸はなぜ赤なんですか?

 

大信 これは僕の好きな色なんです(笑)オレンジなんですけど、僕は舞台美術もやるので、島の緑との補色を狙っているのもあります。特に意味は持たせていなくて、黒バックで何が一番映えるかという、ビジュアル的なところでやっています。

 

客3 震災前に仙台で劇場に務めていました。この作品は劇場が復興して行く過程でもすごく大事な作品だったと思うんですが、10年の重さみたいなものはどう感じていらっしゃいますか?

 

大信 作品のことを考えると、本当に10年て大きいなと思うんですよね。単純な話、嵐もいなくなったし、mixiもなくなったし、新聞記事の一つ一つに出てくる年齢が10個変わっている。中には生きているかどうかという方もいる。そういう10年の重みはすごく考えながら作っていきました。10年自分は何をしていたかとか、演劇の作り方がどう変わったかは整理がつかないんですけど、作品を作ることで10年を振り返ることができたのはいい経験でしたね。振り返るきっかけになったし、視点を与えてもらうことができた。それと、10個年をとって10年演劇の経験をした自分が過去の自分にダメ出しをしながら作っていく作業も、作り手としてはすごく面白かったです。

 

萩原 再演というと簡単そうに聞こえるけど実は意外と難しいですよね。10年再演できる強度のある作品って、一生のうちに何本も作れないと思います。

 

大信 そうですね。役者も、やりながら当時と同じ気持ちが湧き上がって来ているようなことはありましたが、初演の時はその時の自分の生の感情でいけたところが、10年経つとさすがにできないので。そこは理詰めで作っていきました。

 

生田 私からも一ついいですか? 初演が2011年の6月ですよね?それまでの間どうしてたのか、実はすごく聞きたかったのを思い出しました。うちは4月にC.T.T.の仙台事務局の方に誘っていただいて、特別試演会に参加したんですけど、それをUstreamで見ててくれたんですよね、ペリカンさんが。あの時は私、本当にセリフなんて書けなかったので、俳優がただ立って動いてるところから断片をつないですごく短い作品を作ったんですけど、その中に、誰もいない荒野に町内放送が流れるシーンがあったんです。そこで無意識に使っていた曲を、Ustreamを見てたペリカンさんが「新世界だ!」って言ったのを、今、すごく思い出して。「ああ、ペリカンさんが見てくれてるんだ」とすごく感動したんです。その時、ペリカンさんが福島でどうしてたのかを、当時すごく知りたいと思ってたんです。

 

大信 その頃はUstreamを見るくらいしかできなかったんです。3月はほぼ記憶がなくて、4月になってようやく舞台みたいなものに触れたいと思って、その時たまたまC.T.T.のUstreamの配信があったから見て。そこにドボルザークの「新世界」が流れて、自分としてはすごく勇気をもらって。仙台のみんながやっていることにも勇気を受けたし、作品から流れる曲にも勇気を受けたし、それで自分もやってみようというところにいけたと思います。

 

 

(2021年1月31日)

(構成・編集:谷津智里)