せんだい演劇工房10-Box

仙台舞台芸術フォーラム

劇団うたたね.<ドット>『咆哮 <私たちはもう泣かない>』アフタートーク

登壇者:三國裕子、武内宏之、矢口龍汰

 

『咆哮』が誕生するまで

矢口 本作の感想だったり、作品のテーマについて三國さんと武内さんにお聞きしていきたいと思います。武内さん、2019年にいしのまき演劇祭で本作が上演されたのをご覧になったと思いますけれども、今回あらためてご覧になっていかがでしたか?

 

武内 震災後、私が取材してきたあの人、あの場面のことかなと思うことがたくさんありました。おそらくはかなり取材されて、その中から選ぶ苦悩を経て作り上げた台本かと思います。本当にこれだけの取材、執筆、それを演じた三國先生はじめキャストのみなさんの演技力で、10年前のあの日のことを、目の前にあらためて突き付けられた思いでした。最後は涙が出てきてしまいまして、本当に素晴らしい演劇だと思います。今日、来る時に矢口さんから「伝承演劇」という言葉を聞いたんですが、私は初めて出会ったジャンルです。終演後の舞台挨拶でも「これからも続けていく」ということでしたが、10年を迎えて、これから改めて被災地の人たちのことを表現していっていただければと思いました。

 

矢口 新聞社時代に多くの方を取材されたご経験がある武内さんから、多くの方に取材したんじゃないかとお話がありましたが、この作品が作られた経緯を三國先生にお聞きしてもよろしいですか?

 

三國 新聞社さんに比べたら取材なんてぜんぜんしていなくて、これは私の夫が一気に書き上げてくれたものです。震災の後、私は「演劇なんてやっていていいのだろうか」と戸惑っている時期が長かったんです。演劇は娯楽のイメージがやっぱり強いので、そんなことをやっていては駄目だと思いながらも、どうしたらよいのかわからず自分を責めていたんです。その間に夫が、仕事柄、震災について見聞きしたことを溜めておいてくれた。そして私に「お前には演劇しか無いんだからこれをやれ」と。「この悲しい思いを風化させては駄目だ。伝えることが防災につながるんだぞ」って言ってくれて。いろんなことを諦めかけていたんですけれども、この作品が私の背中を押してくれて、一昨年初演しました。

 

矢口 震災後も数多くの演劇を上演されていましたが、迷いがありながらやられていたんですね。

 

三國 震災後は、楽しいことをやってみんなを元気づけようと思って、市民会館も文化センターも無くなった状態でしたけれども、施設をまわったり、とにかくできるところで楽しい芝居をやろうと考えていました。けれども、これでいいんだろうかと、やはりどこかでずっと自分を責めていましたね。きっとたくさんの人がそんな思いをされていたと思います。

 

 

「言葉にならない思い」を伝える

(劇団うたたね.<ドット>『咆哮 <私たちはもう泣かない>』 2021年2月 撮影:岩渕隆)

矢口 この作品はとてもストレートに震災のことを伝えていますが、伝承する使命を感じてこういう演出にされたんでしょうか。

 

三國 最初は使命感は無かったです。私自身も直接(津波の)被災をしている人間ではないですし、台本を読んで「うわ、これは大変だ」と。体力的にも精神的にも大変な作品だと思いましたが、とにかくやろうと。一昨年、演劇祭で初演させていただいた時に、被災した人たちからお声をいただいて「これは伝えなきゃ駄目だ」と、その時に思いました。

 

矢口 どんなお声をいただいたんですか?

 

三國 小さな劇場に80人近くギッシリ入って観ていただいて、最後に「ありがとう」っていうお声をたくさんの人からいただいて。「これを見て気持ちを吐き出せた」と言っていただいて、「ああ、私の役目はこれだな」と、その時に思いました。

 

矢口 このアフタートークの一つの大きなテーマが「演劇と震災伝承」ということになると思うんですが、武内さんは石巻日日新聞社が運営する『石巻ニューゼ』という展示施設の館長もされていました。ニューゼには、震災当時話題になった手書きの壁新聞が展示されていまして、それをお客様に見ていただきながら当時のことを伝える活動もされていらっしゃいます。そのお話もお聞きしてよろしいですか?

 

武内 私は石巻日日新聞社に38年間務めておりました。その中であの震災に遭ったんですけど、会社にも津波が来て、新聞社の心臓である輪転機が水没してしまいました。停電でパソコンも使えない。いったいどうやって次の日から新聞を出そうかと、当日の夜、社長を含めて話し合っていました。その時に、若い時に先輩から聞いた話を思い出したんです。日日新聞は大正元年の創刊で、震災の翌年の2012年には100年を迎えようとしていた歴史ある新聞社なんですが、日本は戦時中、言論統制のために「一県一紙政策」がとられ、他の大きな新聞社に統合されそうになった。それでも先輩たちは新聞を出し続け、やがて紙の配給もストップされると、そこら中のわら半紙を集めてきて鉛筆で記事を書いて地域に配ったと。入社したばかりの頃、酒が入ると先輩から耳にタコどころではなく繰り返し聞かされていた伝説でした。震災の夜、記者になって30年目でその伝説を思い出した。それで、じゃあ先輩たちのように紙とペンさえあれば伝えることはできるという発想が生まれて、工場に行きましたら、輪転機の上に新聞用紙のロールが濡れないであった。マジックペンは総務にストックがありましたから、明日から手書きだというのが震災の夜に固まりました。3月12日から6日間、毎日6枚書いて、6箇所の避難所に貼り出しました。他のマスコミにも取り上げられましたが、あれは私たちにとっては「これしかできなかった」証拠にしか過ぎないんです。2、3日経つと、大手の新聞社がペラ一枚ではあっても印刷したものを避難所に配り始めるんですよ。ですから、いろいろ取り上げてはもらいましたが、現場の人間としては決して誇らしい思い出ではないんですね。

 

矢口 当時はどういった取材をされたんですか?

 

武内 とりあえずは市役所に行って、そこにある情報をとにかく持ってくることから始めました。地震が起きて、それぞれ取材をしに出た後に津波が来ましたから、6人の記者のうち翌日に連絡が取れていたのは4人だった。津波に呑まれて6日目に戻って来た者もいました。車は津波の被害に遭ってますので歩いての取材です。だから、地元紙なんですが他社にどんどん抜かれていった。悔しかったですね。

 

矢口 石巻日日新聞は本当に地元に根ざした新聞で。今日一緒に来るときに「新聞は言葉にならない言葉の代弁者である」というお話を聞いたんですけれども、いろいろな人に取材をして、言葉にならない想いを記者が言葉にするということですよね。

 

武内 新聞社、マスコミ界でよく言われる言葉に「声なき声を聞け」というものがあります。心の中で思っていても、世間体を考えたりしてなかなか発言できない。そういう「声なき声」をどれだけ取材して拾って社会に問うていくことができるか。それから、SOSの無いところにSOSをどう感じるかということを後輩たちに言ってきました。石巻の半島で被災した人たちに「今何が欲しいですか」といっても「私は大丈夫ですから隣に行ってけらい(ください)」と言う。でも実際はどう思っているのか。心の奥底の言葉を拾うことは心がけてきました。

 

矢口 演劇も、言葉にしきれない思いや感情を直接目の前で体感してもらって伝えるという一つのツール、表現だと思っていて、まさしく今回の『咆哮』も、言葉にならない思いが叫びになるという意味のタイトルなのかなと感じました。

 

三國 心に秘めた思いは本人にしかわからない、それを言葉、文章にするのはものすごく難しいことですよね。『咆哮』というタイトルも夫がつけたんですが、私自身も最初「え、何?」と思いました。「ライオンの咆哮」などは聞きますけれども、「人間が咆哮するってどういうこと?」と。タイトルがあまりに重いんじゃないかと。でも今は、胸に抱えて言い出せない本音を吐き出せるところがある、相手がいることで、また明日へ進めるということが、このタイトルにこめられているんだと思います。

 

武内 「PTSD」という言葉がありますが、あれはアメリカ兵がベトナム戦争から帰国してから暴力的になる症状が現れたことから生まれた言葉だそうですが、大変な経験をした人にはできるだけ早い時期に思いを吐き出させた方がいいそうです。泣きたいならば枯れるまで泣く、叫びたいなら思い切り叫ぶ、それが後にトラウマを軽減させると。終盤の場面はまさにそうですよね。

 

 

大切な人とつながる方法


(劇団うたたね.<ドット>『咆哮 <私たちはもう泣かない>』 2021年2月 撮影:岩渕隆)

矢口 武内さんはご退職後も取材を続けられているそうですが、そのお話もお聞きしてよろしいですか?

 

武内 現役時代には報道部長もやっていましたが、休みのときは(牡鹿)半島に出かけたりして個人的に取材していましたし、ニューゼが2012年に開館してそちらに移ってからも、時間があるときは取材を重ねていました。個人的に3つの取材テーマを設けまして、津波で家を失くされた方、津波で仕事を失くされた方、そして津波で大切な人を亡くされた方の3つです。仕事は、復興に向けた建築・土木関係の仕事がたくさんありましたから、落ち着くまで食いつなげるだけの仕事はあった。家については避難所から仮設住宅、復興住宅と徐々に環境が整っていった。最後の、大切な人を亡くされた方、ご遺族がどのように心の復興を遂げていくのかということなんですが、これは今も続いています。『咆哮』にも出てきた幼稚園バスの被災で大好きなお姉ちゃんを亡くした妹さんが去年、短編小説を書いたんです。どういう物語かというと、お母さんから頼まれて買い物に行って、店の外に出ようとしたら妖精が目の前に現れた。妖精は願いを叶えるという3つの白い花びらを渡してくれた。最初に、病気で亡くなったお姉ちゃんにまた会いたいと願うとお姉ちゃんが出てくるんです。自分は12歳になっているんですが、お姉ちゃんは6歳で亡くなった時のままで、逆に自分のことを「お姉ちゃん」と呼ぶ。彼女はお姉ちゃんとままごとをしたりして遊ぶんですが、学校にも行かなきゃいけないし友達とも遊びたい。その間お姉ちゃんが一人でいてはかわいそうだと。それで2つ目の願いは、「お姉ちゃんがもとの世界に帰れるように」ということにするんです。お姉ちゃんは「また必ず会えるよ」と12歳の妹に言って戻っていくんですね。それで、最後の花びらには「お姉ちゃんがいつでも笑顔でいられますように」と願う。それで3つの願いを叶えたと。この物語を読んで、彼女はお姉ちゃんのことをしまいこむ心の引き出しを見つけたんじゃないかと思いました。子どもたちは自分たちの宝物を学習机の引き出しにしまいますが、会いたいときは引き出しを開ければいつでも会える、いつでも思い出せるわけですね。ですから「心の復興」というのは、悲しい出来事をストーリー化することによって、心の整理をしていくんじゃないかと。もう一人、東松島の86歳になるおじいさんを取材しているんですが、野蒜地区に住んでいて、この地域は津波で壊滅でした。地震が起きた後、奥さんと一緒に安全な内陸まで逃げたんですが、奥さんが次男から預かった犬を忘れてきたと言って戻ってしまった。それで今も行方不明なんですね。「あの時女房の腕を握りしめて離さなければ、こういうことにならなかった」と涙ながらに話すんです。でも時間が経つに連れて徐々に現実を受け止めてきたのか、般若心経を覚えたっていうんですよ。70代後半になってから覚えた200字以上を、私の前で唱えてみせるんです大きな声で。おじいさんは毎日起きると、奥さんにご飯をあげて水をあげて、般若心経を唱えてから一日を始めると。さきほどの女の子はストーリー化することによって自分に起きた出来事を整理していた。86歳のおじいさんは般若心経を通して天国にいる奥さんとつながる方法を見つけたんじゃないかと。それぞれのやり方で、天国にいる大切な人とつながる方法を見つけることで、心を回復し、傷を癒やしながらこれからの人生を歩んでいくんじゃないかと思います。『咆哮』にもそういう場面がありましたよね。

 

三國 今すごく、次の作品に向けてよい物語をいただきました。被災地には本当にいろんなドラマがあるんですが、それをまた演劇として伝えられたらと思います。

 

武内 『咆哮』は伝承演劇というジャンルだと思いますが、私の取材では、昨年、一昨年あたりから被災者の方々のメンタルがまたちょっと落ちてきたかなと。眠れないとか、そういうことを聞くようになったんです。昨年、県内の大学が復興住宅で実施したアンケートがあったんですが、多くの人が不眠などの症状を持っているそうです。心の復興というのは10年で区切るものではないし、むしろこれから、本格的に回復してく時期を迎えるんじゃないか。それを代弁する方法として、演劇は大きな存在になっていくんじゃないかと、今回の作品を見てそう思いました。

 

三國 すごく責任を感じます。武内さんとの出会いをいただいてからもう30年くらいになるんですが、石巻は「文化不毛の地」と言われ続けてきました。震災が起こる前から、私はずっと演劇人として、石巻日日新聞社をはじめ、地元の新聞社さんにずいぶん応援してもらいました。だからここまで来れたと思っています。演劇はメディアとは違うけれども、震災を伝え続けたいと思いますね。

 

矢口 大切な人を亡くされた、その人とつながるために物語が力を持つんじゃないかという武内さんのお話は、演劇をやっている者として私も希望を感じました。

 

 

石巻の文化を耕し続ける

(劇団うたたね.<ドット>『咆哮 <私たちはもう泣かない>』 2021年2月 撮影:岩渕隆)

矢口 最後に、三國さんに今後のビジョンについてお聞きしてもよろしいですか?

 

三國 仙台からオファーがあって、今日こうして再演させていただけたことは私達には大きな進展でした。こうやって一歩前に進めたことで、これから先も物語、ドラマをいろんな形で伝え続けていければと思います。震災で劇場が無くなってしまった石巻に、やっと来月、ホールのある複合文化施設がオープンします。それを市民のみんなと喜び合って、私たちの地元の話を伝えたいと思って、来年の2月末に会場をおさえました。『咆哮』のドラマをもっと広げて前編後編とつなげて、日常があって大きな悲しい出来事があって、だけど負けないという、心の復興を描いた大舞台を市民のみんなと一緒に作っていけたらと、着々と粛々と考えています。

 

矢口 武内さんからも、一言お願いします。

 

武内 さきほど三國さんから「文化不毛の地」という言葉が出ました。ある作家が遺した言葉が、町を卑下するように石巻で使われてきたんですが、私は取材してきて、石巻は文化不毛の地ではないと思っています。ただ、耕してこなかった感じがするんです。石巻には文化的なもの、そして宝物がいっぱい埋もれています。それをどれだけ掘り起こして地域社会に知ってもらうかが、38年間記者をやってきた私の一つのテーマでした。その途中で1000年に1度と言われる震災に遭遇してしまいましたけれども、被災を受けてまた新たな石巻の文化をどのように築き上げていくかではないかと。今、毎年のように被災地が増えております。震災だけではなく、異常気象による被災地ですね。大きな災害があると、街はどうなって、そこに住む人たちはどうなるのか、そしてどのように回復していくのか。それを発信し続けることが、震災直後にお世話になった全国のみなさんへの恩返しにもなると思います。演技は生で見るのが一番ですが、今は新型コロナウィルスの影響でZoomなどを使った配信のしかたも出てきております。そういうものを活用して伝えたいことを配信する方法もあると思います。あれだけの災害を味わった人間としては、とにかく命さえ守れば、10年経つとこうやって働けるし、演劇もできるようになるんだよと。だからもし災害に遭ったら命だけは守ってくださいと、そういうメッセージもこれから伝えていきたいと思います。そして三國先生には、演劇を通して被災者の心を発信し続けていただきたいと思います。

 

三國 私は本当に演劇しか知らなくて、何のお役にも立てないと思ってきましたが、今日改めて、力強い味方との出会いをたくさんいただいたと思っています。一歩一歩ではありますが、自分ができることをできるように、そして心をこめてやっていきたいと思っています。

 

 

 

(2021年2月7日)

(構成・編集:谷津智里)