せんだい演劇工房10-Box

仙台舞台芸術フォーラム オープニングイベントトークセッション

「劇作家は、震災をどのように受け止めたのか」Ⅰ

出演:生田恵、なかじょうのぶ、長谷川孝治 / くらもちひろゆき
司会:伊藤み弥

 

【一日目】

伊藤 まず最初にお聞きしたいのですが、劇作家をはじめ音楽家、小説家にも、震災後「書けなかった」とおっしゃる方が多かったように思います。その「書けなさ」とは一体何だったのでしょうか。

 

生田 あの時は、震災が起きたことで日常生活がバラバラになって、気持ちもバラバラになって、言葉もバラバラになってしまって。自分の日常がバラバラになると書けなくなるんだな、と思いました。感情が無いと言ったらおかしいんですけど、バラバラになって、考えたり思ったりすることもないんです。だから書けなくて苦しいわけではなくて、「ただ書けなかった」という感じでした。

 

なかじょう 書けないとか書くとか、俺は考えがそこにまでいかなかったですね。町が崩壊しちゃって、これはいろんなことが起きるだろうと思って、自主的に自警団をやっていたんです。それで毎日忙しくて、「書く」という発想にまでいかなかったですね。

 

長谷川 今日の作品の中でもご覧いただいた通りに、全く書けなくなりました。ちょうどその時、大林宣彦監督の『この空の花』という映画の脚本を書いていたんですが、それが完全に止まりましたね。あまりにも物語が成立する土台全部が崩れちゃってね。地震と、さらに原発で科学が壊れた。それは日本が一度終わってしまったということでしたから。

 

伊藤 そこから、震災後最初の作品にどうやってたどりついたのでしょうか。

 

生田 震災後に書いたものとしては『はなして』が最初なんですが、その前に、短い作品を試演会的に発表する場をいただいたんですね。その後、フェスティバルに出ることがもともと決まっていたので、そこに向けて「はなして」を書くことになりました。自分たちでゼロから何かをやろうと思ったら、おそらくそんなに早い段階では書けなかったと思うし、周りの方に機会をいただいて、それを一つずつやりながら、自分の心を少しずつ回復していったんだと思います。

(『はなして』 作・演出:生田恵/2020年2月 撮影:岩渕隆)

 

なかじょう 3月12日に旗揚げ公演をする予定だったところに震災が起きたので、秋口になって、とにかく旗揚げだけはしようと、公演をしました。このまま自警団をやってると生活に潰されるなと思ったので、劇団員を無理やり引きずって、もうとにかく「はた迷惑でもいいから」芝居をやろうと。引っ込んじゃったらもうダメだなと思って、とにかく筍のようにどこからでも生えるぞという気持ちで、力技でやった。劇団員に「一緒にやろう」と声をかけたら、彼らの方が熱い気持ちがあったので、走り出せましたね。

 

長谷川 僕は国際交流基金から「東北と中国と韓国で共同制作をしたい」と言われて。震災があって、なかじょうさんと石川(裕人)さんの顔が浮かんでいたので、じゃあその3人で書きましょうという話をしに仙台に来たんですよ。そしたら石川さんも「やろうやろう」と。ところがその少し後に石川さんが亡くなられた。それで僕が単独で書くことになって、『祝/言』という芝居を書き上げました。
その後、弘前劇場では『そうめん』というお芝居を書きました。これは初めて僕が震災を自分の中で消化して書いた話です。東北の座敷童子がある日「仙台の仮設住宅に行く」と言って家出をしようとする話で、僕たちもそこに行きたいんだけどどうやって行ったらいいかわからなかった気持ちを代弁させたんですね。次は『海辺の日々』という作品で、海辺の通信社の新聞記者の猫が行方不明になる話。震災で津波が来た時、猫がいなくなって、猫を探しに行って引波でさらわれた人がいっぱいいたという話が非常に心に残っていまして、それを書かせていただきました。それから『最後の授業』というのを一番最後に書くんですが、これは原発を扱った作品です。だいたいその辺りで、自分の中でもう一度物語を作ってみようという気になった。子どもたちがお話をせがむのは、世界を理解するために物語に真実を求めるからです。それと同じように、人びとに物語が必要だと思いました。『祝/言』とその後の3本の戯曲を書いて、ようやく「物語を作っていくしかない」という気持ちが出てきましたね。

 

伊藤 『壊れる水』の中で、公務員のように原稿用紙の前に座るというお話がありましたが、あれは本当のことなのですか?

 

長谷川 まさしくそうで。カポーティもそうだし、だいたい作家さんていうのは座るんです。2時間か3時間、何も出てこなくてもただ座っている。そうしないとダメなんですよ、書けない。だから書けなくても毎日やらないとね。若いうちは、酒飲んで次の日起きたら知らないうちにできてたってことはあるけれども(笑)歳をとるともうそういうことはなくなるので、毎日毎日座ってましたね、ひたすら。

 

生田 私はずぼらなので、そういう時とそうじゃない時があるんですが、書いている時期は、どんなに書けなくてもやっぱりひたすら座っていますね。

 

なかじょう 私も2時間座りますね。でも書けない理由を作りたいからこまめに掃除しますよ。これをやらなきゃいけないから書けなかったんだと、何か理由をつけて時間を区切りたいんですよ。だから机の中なんかすごい整理整頓されます(笑)書きたい欲望がここまで降って来てる、でも書けないという時は、トイレの掃除してます(笑)

 

伊藤 みなさんひたすらに座って、書ける時を待つんですね。

 

長谷川 ふっと神様が降りてくるんですよ。「ああ降りてきたな」とふっと捕まえて、そこから引きずり下ろしながら書き始める。あとリズムがあって、今日まだ書けるなっていうところでやめないといけないんですよ。それ書いちゃうとダメなんですよ。それが書く秘訣です。

 

伊藤 そういう苦労する時間があって、最初の作品を書き上げた時はどういうお気持ちでしたか?

 

長谷川 完成っていうのは僕の中には無いんです。前日まで劇中に出てくる歌の歌詞を書いていましたし。初日の幕が開いて「よく出来上がったなあ」と思いましたね。

(『壊れる水』 [『祝/言』より ] 作・演出:長谷川孝二/2020年2月 撮影:岩渕隆)

 

なかじょう 震災後の第一作は『異へ その弐』っていうんですけど、3.11が「その壱」で、そこからどこかにいかなきゃいけないっていうので題名を『異へ その弐』にしたんです。震災の一ヶ月前くらいから魚が異常な取れ方をしたとか、動物たちが異常な行動をしたという話をヒントにして、火星から見たら地球のプレートがずれてるのはわかってたという架空の話をでっちあげて、火星人たちがそれを地球人に教えようと思って来たら、地球ではタコになっちゃって通信ができなかったっていう、馬鹿げた話ですね。そういう台本を書き上げました。書き上げた時は「やったー!」という気持ちでしたね(笑)

 

生田 私は『はなして』の時は、本当に書き上がったのかどうかもよくわからない感じでした。あまりにも断片的な言葉を書いただけだったし、「終わったような気がするけどこれでいいのかなあ」みたいな。そのあと『あと少し待って』っていう作品を書くんですけど、それがようやく会話劇になってきて。ただ会話劇といってもドキュメントに近いような。自分から何かを創作したというよりも、書かされて書いたような感覚です。

 

伊藤 三者三様ですね。さて、この震災を経験したことでご自身が変わったことなど、お気づきの点はありますか?書くという行為に限らなくてもいいんですが、震災前の自分と震災後の自分で何か違いがあればお聞かせください。

 

なかじょう 3.11の夜、星がすごく綺麗で、その時に初めて星の音が聞こえた気がしたんですね。街中全部停電だったし、携帯も鳴らないし、車も走ってなくて。それで非常にいろんな音が聞こえた記憶があって。それから音に対する感覚が鋭敏になった気がします。雨の音とか、花びらの散る音とか。別に超能力者になったわけじゃないのね、鳴るはずないし(笑)ただ、無いであろうものに対しての第7感が発達しましたね。あの夜のイメージをずっと引きずっている感覚があります。

 

生田 私はあの日の出来事が視覚的に残っているような気がするんです。『はなして』を読み返したり、道を歩いていても当時の光景が見える感じがあります。あの日歩いて帰った道を通ると、道路が盛り上がって切れていた光景がいまだに見えたり。海辺の被災地の方を通っても、当時の景色が今でも見えるというか、視覚的に記憶に焼きついているんです。震災後に何本かの戯曲を書いて「いつまで震災のことを書くのか」と言われたこともありますが、私の中では普通のことです。全部自分の中に含まれて今につながっているので、直接震災のことを書いていなくても、被災地域の街のその後の設定になっていたり。特別意識するわけではなく自然に震災のことが作品に現れています。

 

長谷川 僕が一番変わったのは、作品の制作方法が「ポストドラマ」になったことです。ポストドラマは世界的な潮流で、セリフだけじゃなく映像もダンスも音楽も同等に演劇の中で使っていくんですが、それを5年くらい前からずっと考えていまして、その傾向が震災後特に強くなりましたね。音楽の使い方なんかがものすごく変わって。今日のお芝居ではベートーヴェンのピアノ・ソナタの32番の2楽章を始めから終わりまで18分間かけてる。なんでソナタなのに2楽章までしかないのかとか、ベートーヴェンはどういう風にしてこれを作ったんだろうとか、そういうのをちゃんと自分の中に折り込みながら。あとダンスを非常によく使うようになりました。僕はもともと学生時代には山海塾で金粉塗ってたんですね。それはすぐ卒業しましたけど、今もコンテンポラリーのダンサーやジャズダンサーと一緒にやったり、振り付けもやるんです。
そういう風に作風がどんどん変わっていきましたね。音楽やダンスや写真を、セリフの補助としてではなく作品の中心に据えて使っています。震災で言葉の無力感を知ったからだと思います。

 

伊藤 もうひとつ、震災を語る時、「当事者か当事者でないか」ということがよくキーワードになりますが、みなさんはこのことについてはどのように感じていますか?

 

長谷川 僕は自分は当事者だと思います。原発問題はずっと続きますし、当事者でないわけはないですね。以前、生田さんが「線なんてない」と言ったのがすごく記憶に残っています。「福島とか宮城とか、そんなの関係ないじゃん、線なんて無いんだから、見えないんだからね」って。それを聞いたとき感動して、よく覚えていますね。

 

なかじょう 震災の年の5月〜6月、劇団員を連れて松島とか南三陸で小学生に朗読をしていたんですけど、瓦礫の中を登校してきた子どもたちが、教室に入ると聞き役になっておとなしくしていることに違和感を覚えましたね。「今は僕たちは聞く係だから静かにします」みたいなのがこっち側にすごく伝わってきて。また時間が来ると瓦礫の中を帰って行くのに、綺麗になった教室の中ではそこに合う役割を演じてしまう。それを見て、当事者だとか当事者じゃないとかの枠を超えたところにいかなきゃいけないと思いましたね。生きてる間はみんなが当事者なんだから。生きてるからにはどこかの何かの遠因にもなっていて、被害者であり加害者であり当事者。それを認識して生き続けなきゃいけないと強く思いましたね。

(『徒然だ』作・演出:なかじょうのぶ/2020年2月 撮影:岩渕隆))

 

生田 私は当事者だという意識が強くあるのに、当事者だと言い切れずに苦しみました。そう言っていいのか自信が無かったしわからなかった。なので、一生懸命当事者になろうとして動いていたような気がします。

 

伊藤 それでNGOの活動に協力したり?

 

生田 そうですね、そういう活動に参加したり。仙台の外に行っていた人たちが「帰って来たい」と言っていた気持ちに近いのかもしれません。私は演劇をやっているので、それこそ「みんなが当事者なんだよ」って言わなきゃいけない立場だと思うんですけど、それでもやっぱり自信がなくて。そういう葛藤というか、辛さはものすごくありました。

 

伊藤 私は東京の演劇関係者からよく「当事者じゃないからわからない」とか、触れてはいけないんじゃないかという遠慮や戸惑いがあったと言われたことがあったんですが、その戸惑いというのは、何なんでしょうか。死者に対するものなんでしょうか。

 

生田 それぞれの経験は、間違いなくその人の身におきたことなんですけど、たとえば、私の家は内陸部にあって、津波は来なかった。そうすると自分は「震災に遭った」と言っていいのか、という気持ちになってしまって。そういう馬鹿げたことが自分の中にブレーキになってしまって、必死に沿岸部に通いましたね。

 

伊藤 なるほど。それぞれの経験のグラデーションの中で迷ってしまうんですね。その生田さんが「線なんて無い」と言われていたのも感慨深いですね。

さて、この仙台舞台芸術フォーラムにはアドバイザリーボードの方が岩手、宮城、福島、東京にいらっしゃるんですが、今日は客席に、岩手からくらもちさんがいらっしゃっています。よろしければご発言いただきたいと思います。

 

くらもち 聴きながら改めて思ったんですが、9年経ってるんですよね。覚えているとはいえ、もう忘れてることも多くて。その中で、その時どうだったかという話は常にされるんですけど、9年経って、さて今どういう状態なんだろう、この先どうなっていくんだろう、っていうのは、もうちょっと何かあるんじゃないかと。自分が書く芝居にも影響はあったんだけど、震災関係のものを何本か書いて、ある程度整理がついてきている気がするんです、自分の中では。そういう9年間を経ての「この後」に興味がありますね。それは作る人だけじゃなくて、見る人であったり、関わる人全体のことなんですけど。この後どういう風に変化していくのか。どんどん時間が経って震災が遠くなっていった時に、震災が果たしてどういうものだったかが見えてくるような気がしています。

 

伊藤 ありがとうございます。会場からもお一人だけ質問や感想など承りたいと思いますが、どなたかいらっしゃいますでしょうか。

 

 私は東京から参りました。若い時になかじょうさんとちょっと一緒にやっていたことがあって、知り合いだから来たというだけで、テーマに興味があって来たというわけでもないのが正直な気持ちです。なので、3作品見させていただいて、東北の人たちの震災に対する思いはやっぱり違うなって改めて思ったんですね。肌というか皮膚というか生というか、ヒリヒリした感じがすごくして、それに比べると、やっぱり東京では報道ももうほとんど無いわけで。私も「あ、まだこういうことをやってるんだ」って、不謹慎ですけれどもそう思ったりもしました。こちらの方の意識と東京の意識の違いというか、差について何か思われることはありますか?

 

長谷川 僕は劇作家、ものを表現する立場としては、想像力をどれだけ持てるかだと思っています。自分の想像力が届くかどうかはあらゆる表現者にとって非常に重要なことで、それは常に持ち続けようと思っているので、距離というのはそんなに感じていませんね。もしも想像力を無くしたら、書くのをやめるんじゃないかと思います。だから決して遠くはないと思っています。

 

なかじょう やっぱり、太平洋戦争の時代に俺たちは生きていないけれども、それを経て、今現在がここにあるんだっていうことだし、昭和20年に言えなかった言葉を92歳で死ぬ前に言うということもありますし。ドキュメンタリーは真実と事実の2つの側面があると思うので、あえて線を引かずに、東京から3.11をテレビで生で見たという、その記憶はその人の記憶として、どこまでも鮮明にあるということでいいんじゃないかと思いますね。

 

生田 さっきヒリヒリするっておっしゃったじゃないですか。だからこそ、演劇は必要なんじゃないかなって。それが私たちにできることなんじゃないかなって思います。震災直後は言葉を無くして、演劇どころじゃなかったし、何ができるのかって思ったけど、でもこれから、どんどん時間が遠くなったり距離が遠くなったりした時に、私たちがこうやって舞台を作ることで、また感じてもらえればいいのかなと思います。

(2020年2月15日オープニングイベントにて)

(構成・編集:谷津智里)

に続く